秦国最強と言われ六大将軍の一人にして
その最後の生き残りでもある
「秦の怪鳥」王騎将軍について
史実から読み解いた
博士なりの考察をお話していきますね!
王騎将軍の人物録
中華全土にその名が轟いていた
天下の大将軍・王騎は
秦王・嬴政から数えること
三代前の秦王・昭王の時代に
圧倒的な武功を上げ
自由に他国に戦争を仕掛ける事ができる権利を持つ
六大将軍に選ばれたのが
紀元前251年の話。
しかし昭王の死とともに
戦場から遠ざかっていましたが
中華統一という野望を語る若き秦王・嬴政に
新たな可能性、王の器を感じ取り
再び戦場に戻ります。
性格は冗談交じりの会話が多く
人を食ったような態度をとるので
真意を読み取るのが難しい。
心の底から戦場を愛しており
戦闘能力はとても高い。
王騎の真骨頂は
戦場の隅々まで見渡すことのできる
戦術眼の広さにあります。
このため並みの軍師では
王騎には歯が立ちません。
そんな王騎ですが
紀元前244年
秦に突如侵攻してきた趙軍を迎え撃つべく
秦軍の総大将として戦場に向かいます。
一進一退の攻防戦を続ける中
その均衡を崩したのは
李牧の情報操作による援軍でした。
そして最後は趙の総大将・龐煖との死闘の末
そのときに負った傷が原因で最期の時を迎えます。
死に際に王騎は
副官であった騰に軍を任せ
今後秦の顔になるであろう蒙武に
助言を与えました。
そして最後に
信に「素質はありますよ信」
という言葉と矛を託し
笑みを浮かべたまま
馬上で静かに息を引き取ります。
これがキングダム前半の屈指の名場面
そしてファンの心を
一気に掴んだ瞬間でもあります。
史実の王騎
実在の王騎も昭王配下の将軍でした。
昭王は王騎に命令し
軍を率いさせ
趙の都・邯鄲を包囲させました。
これが邯鄲の戦いです。
キングダムにおいて
大きな存在感を見せつける王騎ですが
以外にも実在の人物としての記録は
ほとんど残っていません。
秦の始皇帝が即位する以前に
いくつかの武功を挙げたこと
そして始皇帝が即位した年に
政の配下の将軍になったことが
『史記』には書かれています。
そしてその翌年に死亡となっています。
キングダムではこの同年に
馬陽での戦いが行われており
史実通りとなっています。
先生も王騎という人物が死ぬという出来事は
分かっていたので
どう華々しく戦で散らすかを
最大のテーマとしていたと語っています。
王騎はなぜ天下の大将軍に選ばれたのか
史記の中の注釈では
秦将の王齕と王騎が
同一人物である可能性を示唆している。
王齕は紀元前259年
趙の皮牢の地を落とし
さらに翌年には邯鄲の戦いに参加。
魏の寧新中と言う所を攻め落とし
その後、寧新中は安陽と呼ばれるようになります。
さらに紀元前246年には
韓の上党と言う地を攻め落とし
占領します。
王騎と王齕が同一人物ならば
趙、魏、韓の三国に攻め込み
キングダムの王騎にも負けないぐらいの
猛威を振るっていたことになります。
おそらくココの注釈から
天下の大将軍・王騎が生まれたんじゃないかと
博士は考えます。
- 実在の王騎も昭王配下の将軍。
- キングダムでの王騎の死は史実通り。
- 王騎と王齕が同一人物と言う説から天下の大将軍・王騎が生まれた。
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